Karl Paul Reinhold Niebuhr「道德的人閒と非道德的社會」1932
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キリスト敎現實主義 (Christian realism)
個人の道德性と集合體――人種、階級であれ國民であれ――の道德性との基本的相違
個人の道德的社會的行動と、社會集團――國民、人種、經濟的な集團――の道德的社會的行動との閒には明白な區別の線が引かれねばならない
人々は生まれながらにして同一の種である人類への或る程度の共感や配慮を賦與されてをり
社會の凝集力の基盤となる自然的衝動に充分に匹敵する力をもった理性的な社會勢力を構築することの難しさ
人閒社會において正義を求める鬪爭が政治的に必然である
集合的權力が弱みにつけ込んで弱者を食ひ物にする時、それへの對抗權力が打ち立てられることがなければ、それは決して取り除かれることはない。
永遠と時閒に關する辨證法的理解、つまり兩者の對立の契機と連續の契機との緊張
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永遠と時閒、超歷史と歷史を二元論的に分離してしまふ保守主義や神祕主義に歷史觀
超歷史と歷史のいづれかのみを絕對化する一元論
Marx 主義
「敗北から勝利をつかみ取る」ドラマ
強烈な「倫理的理想主義」に宿る宗敎的含蓄
議會制社會主義
その合理主義のゆえにマルクス主義がもともと保持してゐた前述の終末論的ないし默示 (ἀπōκάλυψις)錄的契機が放棄され、道德的潛在力や熱情や勇氣ある行爲といったいはば宗敎的な源泉が失はれてしまふ 議會內政治や政黨政治のなかで政策の選擇や實現に關してしばしば取り引きや妥協が強いられ、すべての種類のご機嫌取りにかかずらふ羽目に陷る危險
社會主義政黨の指導者は多くの場合、つねに個人の野心や虛榮心、さらにはナショナリズムの壓力を契機として勞働者階級への裏切り、背信、變節行爲などが日常的に繰り返される
宗敎が悔恨や謙虛の精神を通じて道德的源泉となり、社會の道德的基盤を構築する
個人閒の關係において愛 (非利己性) が最高の德性
より複雜な社會關係や國際關係においては正義 (「平等的正義」) が最も達成可能な高次の道德的理想であり、最も理想的な目標
$ \ne社會的福音 (social gospel)
愛の理想を社會關係や政治において實現しようと試みる
愛はつねに、歷史上のすべての正義實現の行爲に對して、その成就であると同時にその否定でもある
非暴力的抵抗にも強制の要素がある
納税の拒否 (市民的不服從)
強制的な取り引きの拒否 (ボイコット)
通常の業務の拒否 (ストライキ)
アヒムサ (非暴力、不殺生)
社會變革を目指すプロレタリア階級や虐げられた立場にある人々が勇氣ある行動にコミットする場合、また愛や正義に理想を實現しようとする場合、さらに非暴力で社會正義を實現しようとする場合でさえも、ある種の「幻想」(illusion) や「聖なる愚かさ」(sacred madness) を必要とし、それにあえて賭けてみるべきだ
崇高な愚かさ (sublime madness)
ピューリタンの「契約」
「丘に上に建てられた町」としてのアメリカ、そのアメリカの歩みと行動を全世界が注視してゐるといふ感覺、そしてこの「契約」には「特別の責任」がともなふといふこと、そしてこの「特別な責任」の前につねに「畏れとおののき」をもって步むこと、そこにのみアメリカの「希望」がある。もしこの「契約」が「特別の責任」や「畏れとおののき」ではなく、アメリカの「特權」と理解されたならば、アメリカに「希望」はなく、そのヒュブリス (傲慢) はアメリカを惡の帝國にし、全世界の「物笑ひの種」となるだけでなく、世界の大迷惑になる。